逝った父を想う記

10月18日未明、父が逝く。
 
15日に風邪を引き込み、高熱を出し、そのまま帰らぬ人となった。
思えば、ちょうど今頃だったか…検査で父が白血病だと診断されたのは。
余命3ケ月。そう宣告され、病院で泣き崩れたのを覚えている。その後、何くわぬ顔をして父の前に出て、「もっといろいろ調べたいらしいから、検査入院だってさ」とすまして言った。入院した担当医師は、私達家族の反対をナンセンスだと鼻で笑い、事務的に父に病名を告げた。かろうじて、余命のことだけは伏せてくれたが…。
兄も弟も同じ病で亡くした父は医師の勧める抗がん剤治療を断固として断り、私たちはそのまま父を病院から連れて帰った。
それからの約一年の日々は、今にして想えば、父と私たち家族への贈り物だったと思う。
半年間は、私たち夫婦が故郷で父と母と密度の濃い時間を過ごさせてもらった。病院へ通い、私たちのマンションで過ごし、田舎の家で過ごし、温泉に行き、食事をし、買い物に行き、正月を過ごし、東京から帰った兄の家族と父の誕生会を祝った。
そして、3月。田舎の不便な家で住むことの限界と、ヨメに行った娘の家に世話になることへの申し訳なさを抱えていた父母は、兄の勧めもあって、かつて13年住んでいた兄の住む団地へ移り住む英断をした。
「もうここには帰らない。葬式も東京でするから」と親戚にも言い残したほどの固い決意だったとは言え、父はいっこうに引越し準備への行動を起こす気配を見せず、居間から望む大好きな山ばかりを眺めていた。
時折り、ふともらすのは、「なぜ、東京に行くことになったんだろう」と、「なぜ、こんな病気になったんだろう」と、そんな弱気な言葉ばかりだった。
結局、引越しの荷造りも手配もすべて私たちがしたのだが、鬼娘は、もう夏服は着ることがないだろうと父の夏物だけは詰めることがなかった。それほどあの頃は環境を変えて、精神的にも肉体的にもハードな引越しをすることに危機感を抱いていた。
それが、どうだろう。春を過ぎ、夏を越し、秋を越すまで生き延びた。
この半年は兄夫婦と孫たちへの贈り物の時間だったのかもしれない。それができたのも、大陸育ちの父だからこそだろう。
かつて退職してすぐ、田舎は十分住んだから今度は都会で住みたいと東京に移り住み、たちまちその地に馴染み、ボーイスカウトで培った腕を活かし、団地の子どもたちを集めて野外教室を開いたりした。教職を退いてもとことん子どもも人も好きだったらしい。あげくの果ては、町の自治会長にまでなってしまったのだから。
「僕はどこでも住めば都なんだ」と言ってた通り、再び懐かしい東京の地に戻った父は、妻と孫と息子夫婦たちと穏やかに、和やかに、楽しく残りの日々を過ごした。2週間に一度出かける輸血さえも若い看護士に会えていろんな話ができると楽しみにし、病院では人気者になっていたほどだ。
ただ一つの気がかりはバタバタと捨てるようにして出て来た田舎の家と山のことだったらしい。
だからこそ、その田舎の家をきれいにして、楽しんで使っている私たちに、いつもいつも感謝をしてくれていた。私たちは好きで遊んでいただけなんだけど、父は「ありがとう、ありがたい」と何度も言葉にしていた。
そんな言葉が天に届いていたのだろうか?
1ケ月前に元気で帰郷できたのは奇跡だと言っていい。墓参りをし、きれいになった家や山を見て喜び、温泉にまで行った。これで自信が着いたのか、無事に滞在を終えて東京に帰ったすぐその後に、東京で行われた台湾時代の同窓会にも一泊泊まりで出席した。その後、つい最近のことだが、母と多摩川上水の長い散歩をしたという。
風邪を引いたのは冷房の効いたスーパーで好きな惣菜を選んでいたからだというのも実に父らしい。
寝込んだのはまる2日のみ。その間、介護士の孫に看病され、もう一人の女の子の孫はずっと手を握り、声をかけ、母と兄夫婦の見守る中、静かに息を引き取った。私は息を引き取る少し前、午前2時に「声を聞かせろ!」と電話をもらい、受話器を握って泣きながら「父さん!父さん!」と声を掛け続けながらサヨナラを告げた。その横で、父のお気に入りだったヨメのダンナ(相方)は号泣していた。
明け方、空港に向かい朝イチ番の飛行機で上京。ベッドに横たわった父は1月前とまったく変らず、まるで静かに寝息を立てているように微笑みさえ浮かべて穏やかな表情で眠っているかのようだった。
好きなことをやり尽くし、私たちにも兄たちにも孫にも、全員に後悔させず、痛みもなく、寸前まで意識を保ち、望んでいた通り自宅で大好きな家族に見守られて逝った父は、最高に幸せな最後だったと思う。
だけど、もっと幸せだったのは、こんなふうに父を送られた私たちだったのだと、今にもしてやっとわかった。
近親者と家族だけの葬儀だったが、火葬の順番を待っていた3日間、父は自宅で寝て、母も私も長く、ゆっくりしたお別れができた。
めいっぱい明るかった父にふさわしく、雲ひとつない秋晴れの美しい日に父は荼毘に付した。
後に残ったのは、すがすがしい感謝の想いだけだ。
父が次は花見に帰るぞ!と言っていたように、納骨は花見の時にしようと家族で決めた。その時、帰郷する母と兄たちと共に、父を知る人たちも招いて庭で相方が作ったピザ窯で、最高のとむらいの花見の宴をしようと思っている。
まあ、それまで父さん、あっちでみんなと楽しんでてね!