朝の儀式

以前、わたしには習慣がないと書いたけど、一つだけ続いている朝の習慣があったことに気づいた。
それは先祖供養。これに今年から神棚供養が始まった。

たぶん、信心深い祖母の影響かもしれないけど、わたしは幼い頃から、見えない世界のモノたち、そのチカラを信じ、うやまって来た。
子どもの頃から仏壇に手を合わせていたし、神の存在をいつも意識していた。何があっても、何かが起こっても、どこかこれは神様のおかげだと思っていたようなふしがある。
子どもの頃から死んだらどうなるのか? 神はどこにいるのか?そんなことをしんけんに知りたがったりしていたのだから、じぶんながらもヘンな子だったと思う。
わたしの人生の興味(テーマ?)は、そんな神や精神性の探求のような気がする。
年を取るにつれ、わたしなりにわかって来たことは、やはり神はいるということ。神と言ってもキリストだのブッダだの、ナントカ教だの具体的なものではない。
わたしが認める“神”は、見えないチカラ(エネルギー)だ。チカラの元は、太陽であり、月であり、大地であり、草木であり…そして、じぶんの内にも在る。そう、まさに「神は細部に宿る」ということ。
じぶんが生きてゆく上でそれをうやまうことがいかに大切なことかが、よくわかってきた。
わたしの信仰と学びは、日常だ。バイブルは生活、仕事、家族、友人…。日々の暮らしの中で目の前に与えられたものをいただき、そこから気づき、知ること。
ちゃんと目覚めていれば、この世は目には見えない、はかりしれないチカラ(エネルギー)に満ちていることを確信した。
そういうこともあって信心深いわたしは、両親やばあちゃん始め、代々のご先祖様への供養も忘れずにしているんだけど、今年、ずっと気になっていた実家の神棚がやっときれいにできた。
神棚を掃除し、古い札を神社に返して、近くの神社で新しいお札も購入した。
すっきりしたついでに、うちのマンションにも(マンションは“気”がたまりやすい!)小さな神棚を祭った。

  
  (見よ!このみずみずしい榊を。実家の庭から調達)

おかげで今年は新年を、すがすがしく神聖な気持ちで始められた。
人間はわかっていても、常日ごろから日常の忙しさにかまけて、じぶんが生かされているというあたりまえのことへの感謝を忘れがちだ。だから、先祖供養や神棚という簡易的なカタチにして見えないものに手をあわせ、うやまうという日本古来の習慣は、とても貴重なことだと思う。
日々の中のほんのわずかな時間に、「ああ、今日も生かされている」という奇跡に感謝し、意識していると、いろんなことに助けられ、守られていることを知る。
ありがたいなあ〜  
そんな気持ちもあって、わたしの朝は、まず、神棚の榊の水を替え新しい水を備え、簡易的な仏壇のようなものに線香を立てて供養をすること。いつの間にかそれが習慣になり、気づいたら隣で相方も毎朝、手を合わせていた(素直なヤツ)。


  
  (朝食は10時頃ゆっくりと…)