人生のアクシデント

私は忘れた頃に、どどどーーーんと大物アクシデントが来る。
決まって、けっこう調子に乗ってヘラヘラしているときに起こる。まるで天のお叱りと、お試しのようだ。
まったく懲りないヤツだと思うが、アクシデントが起こったときこそ、今の自分の力量や、成長度合いや、身近に居る人の本質がよく見えてくるものだ。
コトは決して、偶然や自然で起こらない。当然、必然であり、原因はすべて自分にある。
今回のアクシデントは自分の傲慢さと怠慢さゆえのことだった。「大丈夫、大丈夫、私にはご先祖様が味方してくれているんだから」と思い上がっていたものだから、ガッツーンとやられちった。反省することしきり。落ち込むことしきり。
…けど精神的には少しは学習の成果が出たらしい。自分を責めることは早々切り上げた。そんなことで自分を責めていても何も進まないから、とにかく取りあえず、受け入れることにしたのだ。
「これは自分に起こったこと。自分が起したこと」
キツイけど、このことを受けいれて、まず一歩。何をやらなければならないか? そうやって、何とかたどたどしくも動き始めたら、なんと、ありがたいことに身近にいる人たちがみんなで助けてくれた。
一番は相方。正直、こんなに頼もしく思ったことはない。自分もキツかったろうに、迅速に動いてくれて励ましてくれた。周りの人たちもそう。大迷惑をかけたというのに、自分のことのように心配して、支えてくれた。
もう感謝、感謝しかない。このアクシデントがなければ気付かなかったことがいっぱい。
本当にマジに負け惜しみとかツッパリではなく、素直にありがたかった、やっぱり天から守られていたと、後からしみじみ気付いた。
人生には誰にも何でも起こり得るのだということ。病気にしても災害にしても事故にしても、起こることは起こるのだ。
だけど、それは罰なのではない。むしろ、経験という贈り物だと思う。
天は決して罰を与えない。与えるのは愛だけだ。
それを罰に変え、“悪いこと”にしてしまうのは、他ならぬ自分なのだ。
起こったことに対しての検証と反省と謙虚な気持ちはとても大切だけど、それよりも「なぜ私に?」「私が何をしたのだろう?」「あのとき、ああしていれば…」「あの人がこうしてくれていれば」「自分はなんて情けない」…こういう後ろ向きの気持ちがコトを倍増させ、物事を悪くし、あたかも罰か悪のように仕立て上げてしまう。
当然、私も小モノゆえ、後ろ向き気分が湧いてきたけど、反面冷静な自分もいた。受け入れて、物事を違う角度から見たら、今、感謝すべきこと、ありがたかったことを数えることの方が気持ちも、物事もいい方向に進むのだと知った。
これは、今後生きていく上でも、ものすごーーく良い経験になったと思う。
来週から東京だ。
母の入院と大手術に立ち会う。この時のためにも、いい経験をさせてもらったと本当に心から思った。