ノルマンディの小さな村

フランス、ノルマンディの小さなの村の物語をNHKのhiビジョンで見た。
森に囲まれた石造りの家々が立ち並ぶその村は、まるで絵画の世界だ。木立の中に建つ家々は古く、15世紀に作られたものもあるほど時間が止まったかのようだ。
一つ一つの家が素朴で味があり、村のどこを見ても美しく、そこに漂う空気は穏やかだ。
こんな村に住んだら、もう一生、どこにも行きたくなくなるだろうな…と、思うのは、観光客気分の視点だ。
実は、この村も日本の片田舎と同じように、若者はほとんど都会に出て行き、人口270人のほとんどが、老人なのだという。
しかし、村にはおしゃれなレストランやシックなアンティークの店が並んだりしている。
村を案内する老人が、「ここは昔行列を作るほどのパン屋だった、この隣は肉屋が2軒もあったよ」と、昔を懐かしみながら言う。
ここもまたお決まりのように、パリから観光客が来たり、週末だけ住むパリジャンやアーティストが集まり始め、不動産屋ができると、空き家の石造りの家はたちまちSOLD OUTになって、村は少しずつ風景を変えているのだという。
TVで見る限り、見かけは本当に静かで美しい村なのだが、昔から住んでいる者にとっては、もう違う村なのだろう。
変わることに執着しなければ、それはそれで、また、おもしろい村にはなるだろうが、ふと思ったのが、ここに日本人が行ったら、どうだろう?
おそらくカメラやビデオを片手の群れができ、すてき!、かわいい!の日本語が飛び交っていることだろうな…(私など、間違いなく家の前でピースサインをしている!)。
だけど、日本人は日本の田舎にカメラを抱えては行かない。
日本昔話のような美しい風景のままで残されている村があったら、逆に外国人がカメラ片手にやって来るのかもしれない。
そう言えば、H市に取材に行ったときのこと。雛祭り発祥で有名な本家の女主人に、「これだけの家をここまで美しく残すのは大変でしょうね」と聞いたとき、女主人は、「それを考えると頭がまっしろになりそうなので、もう考えないことにしています」と本音をもらしていた。
残すことと、暮らすことを、同時に進行するのは難しい。
利便さや、快適さを覚えれば、なおそうだろう。
石造りの家や、ターシャ・テューダーの家などを、いいな〜!とお気楽に写真やTVの外から眺めていても、あの家や村で今から暮らすとなると、そりゃあ、キアイと体力がいるだろう。根性なしの私なんか1日も居られないかもしれない。
それなのに、なぜ、人はあんな生活や家に憧れるのだろう?
どんなに真似ても、どんなに似せても、決して作れない本物と、長い時間が積み重ねてきた味わい。そんな世界が、特に今の日本にはないからなんだろうか…。すべて、快適を選択して来た結果が残るばかりだ。