『ゆれる』で揺れて…

なんだろう、この正体のわからない感覚は…
ふだん通りの日常を過ごしても、ふと、気付くと映画のことを考えている。いや、考えているのではなく、…なんとも説明のつかない感情に今だに、なんだかザワザワと胸の中にノイズが走っているようだ。
「ゆれる」は、ずいぶん以前から評判の映画だった。
この映画を上映する映画館も、今年一押しの映画だと絶賛することしきり。
「いいぞ、スゴイぞ、ゆれるぞ〜」と、ここまで持ち上げられるといやが上でも期待が増して来るが、私は逆にクールダウンさせて、この映画を観たかった。以前、期待し過ぎて、なんだかなあ〜という気分になってしまったのもその理由の一つだが、評価とは別に静かなフラットな気分のままで観たかったというのもある。
まあ、わざわざそんな気分に持ち込もうというあたり、前評判のテンションにかなり取り込まれている自分がいるからだろうけど(苦笑)
で、こうゆう痛そうな映画は苦手だろうな、と思う相方に週一のウォーキングも兼ねてついでに映画も「見る?」と誘うと、意外にも「観たい」と言う。相方もまた、映画館の副支配人がラジオで語っていたのを聞いて興味を持ったらしい(これは映画館の戦略勝ち/笑)
結果が、これだ。確かに揺らされている(笑)。
カメラマンであるオダギリが常にファインダーを覗いていたように、四角の枠に閉じ込められた世界を、常に観客である私も「観らされて」いた。
映画の中の真実や、自分の暗室にいる、もう一人の自分などを…
香川照之は、この役の「稔」は自分自身だと言ったと言うが、私もまた、これは自分だな、と感じてしまった。弟のいる相方は、自分たち兄弟のことのようだ、と帰り道にもらしていた。
結局、誰の中にでもいるのかもしれない、「稔」も「猛」も。
対極にいるようで、二人はよく似ている。
底にある邪悪な部分を表にさらされたような、そんな落ち着かない気分にさせられて、あれは事故だったか、殺人だったかという、そんなことは二の次になってしまう。
だけど、気付けば、あの兄弟が妙に愛おしくなっている。これもまた自分だものな、とどこか暖かなまなざしを抱きながら、兄弟にもう一度、会いたいと思う。
そして、なぜかもう一度、この映画に揺らされてみたいと思っている。
「ゆれる」は、そんな不思議な映画だ。