何もない日曜日

うちの日曜日はたいてい予定未定合わせて「何か」が入っている。
友人宅に呼ばれたり、呼んだり、相方の両親が来たり、兄弟夫婦が来たり、うちの両親ちに帰ったり、整体の予約が入っていたり、それがない時は相方の出勤の日だったり、私に仕事が入っていたり…などなど。
独身時代の日曜日は静かに過ごしていた。平日は取材だ、打ち合わせだ、友人とランチだお茶だ、と忙しいから、土日に貯めて原稿を書いたり、原稿のない時は惰眠をむさぼったり、えんえんと本を読んだり、ビデオを見たり、…思いっきり引きこもり日だった。
そんなのほほんまったりの日曜日が結婚してから、いつの間にか消えていた。まず原稿書きができない。せっかくの貴重な日曜日だ。日頃、夜遅く帰ってバタリと死ぬ相方とのコミュニケーションもあってか、二人で過ごすことが多くなった。
それが、である。
今日は相方が朝からスペイン語検定を受けに小倉に行った。行く間際、「帰りちょっと遊んで来るかも…」と言う。
「どうぞどうぞゆっくりしたまえ、思いっきり遊んできたまえ」と笑顔で見送った。
かくして、今日は朝から何の予定もない、誰も来ない日曜日。
なんて、贅沢!
先日買って来た本を読もうか、貯めていたDVDを見ようか…楽しい引きこもり計画で気持ちが弾んでいる。相方も久々の遠出でさぞ、楽しいことだろう。
ひとりでいるとき、ふたりでいるとき、家族や友人と過ごすとき、仕事に向かうとき、家事をするとき、すべての生活の中にある小さな「わくわく」が私は好きだ。
「人生には愛と友情と仕事があればいい」と言ったのはジャン・コクトーだけど、毎日のこんなささやかな贅沢を愛おしんでいると、本当に人生にこれ以上、何が必要なんだろう?と思う。
私はずっと「生きる」ことに憧れていた。
旅をしていても、その街の生命力に触れられるメルカド(市場)や、生活の場が大好きだった。傍観者ではなく、生活者に、生きていると実感できる人に、憧れた。
だけど、「生きる」ってそんなに大層なことじゃないのかもしれない。毎日毎日、日常に起こる小さなワクワクやドキドキやハラハラを大切をしていくことが、生きることかもしれない…

そんなことをしみじみと気付かせてくれた、この穏やかな日曜日。