仕事ってナンだ?

たとえばの話し。
料理人がなじみの客から、こういう材料を素にして、あなたらしい料理を作ってくれ、と依頼されたとする。
料理人は張り切り、素材を吟味しながら、早くから計画を立て、技を駆使しながら、時間をかけて、じぶんなりの料理を仕上げたとしよう。
そして、ちょっと誇らしげに、できあがりを客に差し出す。
すると、客はなかなかハシに手をつけようとしない。料理はすっかり冷め、味も鮮度を失い、落ちてきたように見える。
なかなか食べようとしない客に、料理人が問うと、客はすまなさそうに言った。
「ごめん。この間は腹が減ってたし、うまい料理も食べたかったんだ。だけど、実は今、腹もまんぷくでね。食べる気がしないんだ。また、いつか食べたくなるときが来ると思う。だから、悪いけど、今回はこの料理、処分してくれないか。あ、もちろん代金は支払うからさ」


こういうことは、仕事をしていればよくあることかもしれない。
いや、実際によくあることだと思う。この広告ギョーカイでは特に。
料理にかけたぶんの代金をいただけるなら、別に何も問題はない。
そうかもしれない。
だけど…そう、だけど、だ。
この置き去りにされた、気持ちのやり場をどこに処分したらいいのだろう、と思う。
そういうとき、ふっと、仕事ってナンなんだろう?と考えてしまう。
なぜ、人は仕事をするのか?
これは、たびたび取り上げられるテーマだけど…。
キチンと答えを出した人はいるのかな?
「人は」というより、じぶんにとっての仕事は?と考えてみた。
当然、「仕事」とは、生きていくため、生活するためが基本なのだろうけど、わたしは、若い頃から仕事を決めるとき、そこを基準にして選んだことは一度もなかった。
短大を出た時、周りが就活をしていたけど、その枠の外にいた。
すんなり「社会人」になることが、ちがう服を着せられるようで、まるでなじめなかった。
生きていくために、生活のためにとりあえず働く。そういう感覚に即、移行できない未熟なじぶんがいた。
もちろん、そういう境遇にいられたことは、とても幸せなことなんだと感謝している。
だけど、もし、じぶんが即、「食べるための仕事」をしなければならない境遇だったとして、幸運に仕事が見つかったとしても、わたしは「なにか」を探していたと思う。
「なにか」とは、なにか?
たぶん、じぶんにフィットしたものだ。
生きていくために、じぶんがじぶんらしく、いられるためのものだと思う。
それが、わたしが「仕事をする(=生きていく)」ことの基準だった。
事実、これはフィットすると思ったものは、片っ端からトライしてみた。今でいうフリーターニートもやった。そのたびに、これはちがうと辞めて、ずいぶん両親に怒られ、心配をかけた。
そして、やっと出会ったのが、この仕事だった。
そこには、じぶんを受け入れてくれたデザイナーのI先生や、S先生がいたおかげだ。でも、そこにたどり着いたのも、じぶんなりにフィットしたものを探していたからなんだと思う。
そこに至るまでの道のりって、けっこうというか、かなり苦しく、つらかった。
今でこそ「じぶん探し」などという言葉があるけど、あの当時、そんなタワゴトをだれが聞いてくれよう。ましてや、あの保守的、世間的に「普通であること」が一番正しいと信じていた両親だもの。
でも、それを通ったからこそ、今の仕事があり、この仕事を見つけてほんとうに良かったと今になって思う。
考えてみれば、まわりのデザイナーや、カメラマンなどのクリエイターたちは、みんなわたしと同じような道をたどって来たんじゃないのかなあ。
だから、ギャラが安くても、保障がなくても、そこにじぶんなりの「フィット」したものがあるから、そこで良しとしてがんばっている気がする。

そういや、うちの姪っ子もそうだわ。
思えば彼女は高校の頃からじぶんの居場所を探してたよなー。留学したいとか、退学してイルカの調教師になる学校に行きたいとか…(笑)
いろんな苦しい過程を通ったけど、いま、イキイキとかなり創造性のあるネイルの仕事してるもの。
一方、仕事に見つけられないとわかったら、じぶんを生かせる、「フィット」したものを見つけている相方のような人もいる。
かと思えば、じぶんがしたいと思って地球の裏側からやって来て、苦労をして手にしたというのに、お金を追いかけて違う仕事に移行いしょうとしている友人もいたりして…。
いろいろだなあ〜


最近、ちょっといろいろあって「仕事」のことを考えてみました。