生きるべきか、死ぬべきか

私は母に何を望んでいるのだろう?
生きてほしいのか、死んでほしいのか…?
頑張って!と言えばいいのか、もう父さんのところへ逝っていいんだよ…と言えばいいのか?
もちろん以前の元気なままの母に戻れないことは知っているが、せめてブドウ糖以外の人間らしい食べ物を口から食べさせてあげたいと思う。
もう1度たわいもない会話をしてみたいと思う。
だけど今の意識障害を回復して正気に戻れば、母には辛い現実が待っている。
手術前と何も変わっていない事実を知らされること、癌のための抗がん剤治療が始まること。さらにまた痛い思いをすること。
今、母は腰に便の袋を付け、足元には尿の管を付け、腕には点滴、鼻には胃につながるチューブ、口には呼吸器、胸には心電図のコードをぶら下げている。その全てのものを付け、うつろな目を天井に向けている母を看護師たちが3人で無理やりベッドから剥がし車椅子に乗せたとき、私は思わず泣いてしまった。看護師は寝たきりにならないようにと、声を掛けながら体に刺激を与えるためにも車椅子に乗せているのだ。彼らは目の前の患者に今すべきことをしているだけ。彼らの仕事は生かせることだ。
わかってはいるものの私はもう止めてほしい、静かに母を寝かせてほしいと安っぽい、ウェットな涙を流す。
このまま痛みを知らず手術したことさえ知らず逝って欲しいと願うのは自分の安心のためめだ。もう助からないと、どこかで放棄しているのは、この先を見たくないと思う自分の弱さのためだ。
そんなエゴもわかってはいるんだけど…気持ちをどこに持っていったらいいのかがわからず、母は生きた方が幸せなのか死んだ方が幸せなのか…などという愚問ばかりが頭に浮かぶ。
そんな日々の中でただ、はっきりとわかっていることがある。
毎日病院に行き、朝から夕方まで母の隣で話しかけ、手を握り、一緒にうとうと眠り、ただ寄り添っていること。
それは私が母の娘だということ。
甘えたくて甘えられなかった自分が、今残り時間を惜しむかのように母に甘えていること。
回復しようがすまいが、今そんな時間をもらっていることは母が生きているからこその贈り物だと気付いた。
この大切な時間にただ感謝しながら、母と過ごしたい。