東京の一日

前回、ブログを書いた翌日から翌週の22日まで、相方の遅い夏休みが取れたのを利用して約1週間東京に行って来た。
目的はもちろん両親と過ごすためだが、今回は両親を連れて帰って来るのがもう一つの目的になった。
もう2度とふるさとには帰れないだろうと本人たちも周囲も思っていただけに、両親の今回の帰郷はまるで奇跡のようだ。22日〜27日までの滞在だったが、ありがたいことにガン患者とは思えないほど2人は元気で、何事も起こらず、すべてが順調で楽しい滞在に終わったことを本当に感謝したい。
東京1週間、帰郷での1週間。両親を送り出した後には、連日の仕事。思っていたより神経を使っていたのか、その後、2、3日は使い物にならなかったくらい心身ともにダウンしていた。
今日あたり、どうにか体力も回復してきたようで、やっとブログに向かえたよ。
あわただしい日々の中で、いろんな気付きや感じたこともいっぱいだったんだけど…なんだか薄れていきそう。それも淋しいので東京滞在の中で一日だけ横浜に住む従姉妹の家に遊びに行ったときのことで感じたことをちょこっと…。
従姉妹の家は「港の見える丘公園」のすぐ下なので、元町中華街の駅から元町を通り、フェリス女学園、外人墓地などを見ながら公園を通って行った。この界隈は、古い洋館や、きれいなカフェが立ち並ぶとても洗練された美しいプレイス。目にするもの、すべてがまるで絵葉書のようだ。
通りも公園も緑の大樹におおわれ、季節の花が咲き乱れ、道にはゴミ一つ落ちていない。古い洋館は市が買い取り無料で市民に公開しているそうだ。そこは鑑賞するだけでなく、小ホールとして市民に安く貸し出し、使ってもらい、毎週、いたるところで市民レベルの小さな展示会や音楽界などが開かれているという。
公園の草取りや植栽はボランティアが市役所の職員の指導の元で行っている。いつかTVの特集で見たセントラルパークも、同じような組織ができていた。
自然も街並みも取ってつけたような、借りてきたような観光風景でないのは、地元の人に愛され、使ってもらえることを優先にし、住む人たちが大切な場所として守ってきたからだろうと思う。そんな時間を積み重ねてきた成熟さを肌で感じてしまう。海の見える公園近くの家で暮らす人々も、森の中の学園から降りて来る制服姿の女の子たちも、私の住む世界とはまるで別世界の住人たちだ。(うーーん、格差社会はこの国にも十分あるぞ)
 
 
自然がある暮らしだの、田舎暮らしだの、都会の生活だの、ここではまるでどこ吹く風だ。自然、美、快適、そのすべてが揃い、調和している。この街で暮らす人々には、この「美しい豊かさ」が日常なのだ。
自然も街も人の手が加えられて、生まれ、育まれ、熟されていく。だけど、熟されるまえに枯れてしまう街もある。きれいな花が、その風土に根付かないように、街や風景も無理やり手を加え、作り過ぎると不自然さを共ない、人も寄り付かず、いつか忘れ去られていく。
その違いは何だろうって考えてみた。
その違いもまた、「豊かさ」なんじゃないかなあ。豊かな発想から作られた街は、まず住む人を喜ばす。そして「美」を知っている。さもしい発想から生まれた街は、まず経済(金)を先に考える。さらに、貧しい発想から美しいとは言いがたい街が誕生する。
どんなに本物の素材を使い、どんなに著名なプロデューサー、建築化、デザイナーを連れて来ようが、ほんのわずかな不調和ですべてが失われてしまう。
不調和とは、「似合わない」こと。
これは街づくりのことだけじゃない。家づくりも、部屋づくりもそう、人付き合いも、自分づくりも同じ。不調和って、なんだか心地悪いんだ。
「美しい」ことって、腹の足しにならないかもしれないけど、人が生きていく上で「美」と「調和」ってものすごく大切な気がする。深いし、強いし、それに、心地いいし…。
だから何なんだ?って言われりゃそれまでだけど…、だから何かなんだよね、今の私にとっては。確認っていうか、やっぱ、認識しておくっことって大切なんだよね〜。
そんなこんなを感じた、東京の一日休日でした。