今日、また一つ…

めでたく年が増えました。何歳になったかなんて言いたくありません。       
年なんて思い込みですもの、「何歳」って言ったもん勝ちよ!
に、しても…精神年齢が実年齢になかなか追いつけません(肉体年齢、見かけ年齢は追いついているようだけど…)。そう言えば、魂年齢っていうのがあるらしいけど私は幾つくらいだろう?気分は20代後半なんだけど…
ありがたいことに義弟からは昨夜ケーキが、今日は友人からは花束が贈られ感謝です。相方?ええ、もうあの方はただそこに居るだけで贈り物ですもの。何にもいただこうなんて思っちゃいませんわ(覚えてなかったし…ぐっ)
今年の誕生日は実家で父と二人だけで静かに祝った。母の入院はまだまだ長引きそうだから週に一度の父の暮らしはまだまだ続きそうだ。
最近、得た気付き。
それは事実を事実だけとして受け入れると言うあたりまえのこと。
このあたりまえのことに気付き、自然に受け入れるまでずいぶんかかったような気がする。事実は、ただそこにあるだけなのに、いろんなものが付いてくる。いや、くっつけて重く、でかいオオゴトにしてしまうのだ。他ならぬ自分が。
例えば、自分の歩いている道の前に石が落ちていたとしよう。
事実を受け入れ、その石を取り除いて、今まで通りただ歩いて行けばいいだけという簡単なことなのだけど、そこに感情や思考や想像が入るとそれが簡単なコトではなくなる。
なんで、こんな石がここに落ちているんだろう?なぜ私1人がこの石を取り払わなければならないんだろう?もしや誰かがわざと置いたのではないだろうか?この先、もっと大きな石が落ちてくるんじゃないだろうか?この道を通りさえしなければ石にはぶつからなかったのではないか?あの人がこの道を勧めたから、いやいや他のあの人がもっと早く歩いてくれれば…などなど、どこまでも雪だるま式でオオゴトを作ってしまう。まだ、何も起こっていないというのに。
その結果、苦しむのは自分だ。そういうことって気づけば、何気にやってしまう。
ちょっと前の自分は自分の周辺に起こることに「気」を掛けすぎていた。だけど、それって何にもならないエネルギーなんだよね。もっと心も省エネした方がいい。その方がずっと楽だし、心にもエコが必要だと今になってやっと気づいた。
だから実家に帰ったとき、母が転倒し倒れていた姿を見ても、そんなにあわてることもなく、ただ相方と一緒に抱えて病院に連れて行っただけで、そこに無駄な思考はプラスしなかった。むしろ、自分たちが帰ったときで良かったと感謝したほど。
ほらね、長生きはしてみるものだ。こんな小さな気づきを会得するんだもの。年を重ねるだけ、経験するだけ、いつもいつも贈りものをいただいているようだ。
何よりも大きな贈り物は、今、生きていること、幸せでいること、そして生まれて来たこと。
すべてに感謝!