夢のハウス

過去に引越しを何度もしているが、引っ越す度に自分の転機になっているような気がする。
それぞれの部屋を思い出すと、当時の自分の生活状態や精神状態もすぐに思い出すことができる。部屋は人の状態を現すというがまったくその通りだと思う。住む家はだんだん気持ちよさを増している。同時に自分自身もだんだんイイ感じになり、穏やかな精神状態になっているのを実感する。
そして不思議なことだけど、しだいに次に住む家というのをはっきりピクチャできるようになった。と、言うより、こんな家に住みたいと思い描いたものがカタチになって実現し始めたといっていい。
だから、よくスピリチュアル系の本に、願いは詳細にイメージすれば必ずカタチになるというのも信じられる。
想う→言葉に出す→カタチになる
これは効く。だけど、無理やりピクチャしてもダメなんだな、これが。こういう作為的な想いは天に届かない。心から自然に湧き上がることを真剣に思うのがいい。それを手にする過程などは、この際ぶっ飛ばして、ただひたすら結果だけをイメージするのだ。このマンションもそうだ。相方と知り合う前からもうずっと、何度も何度も描いていたらそっくりそのままのマンションに住むようになった。だけど、これも不思議なことなのだが、ここに入居した瞬間に感じたことは、「ここは終の棲家じゃないな…」ということ。これは相方も同じように感じたという。
ならば、どこか?
このマンションの部屋はとても気持ちよく、住みやすく大好きなのだけど、最近、週1回帰るようになったせいか、思い描くのは思いっきり緑に囲まれた実家の家だ。実家はうっとおしいほどの草木に包まれた高台にあり、裏の山は県指定の古墳になっている。相方はずっと私の実家の家を気に入っていた。私はこの家から脱出するのが12の頃からの夢だった。それが、今、なぜか漠然と住むことを考えているというのだから、人生は歩いてみなければわからない。今、家の前の道路が開通したての道につながり、私の住む市からずっと近くなった。その上、実家の坂を整備し駐車場も完成した。そのせいというわけでもないと思うけど、ある夜、実家に泊まっていたとき、いきなりここに住む自分たちの映像が降りて来たのだ。映像と同時に将来の自分たちの姿もしっかりと確信に近いほど想像できた。
ビッグテーブルがあるリビングダイニングルーム、キッチンからは緑が見え、広いウッドデッキで相方がビールを飲みながら、本を読んでいる。隣の部屋は、誰が来ても泊まれる座敷のゲストルーム、ソファベッドと本棚のある書斎(たぶん、教師になっているだろう相方の仕事場を兼ねて)も、もう一つのゲストルームになる。隣は自分たちの寝室とそこに続くのは私のアトリエ(たぶん、絵と文章を書いている)。キッチンでは私が料理を作りふるまうのではない。どこかの料理好きの誰かが勝手に冷蔵庫を開けて、料理を作ってくれるのだ。
誰でも出入り自由で長期滞在もOKで、帰って来たと思えるような風通しのいい家は、私と相方の同じ夢だった。
つい最近、住宅雑誌の取材で『誰も通さない家族だけが使う玄関のない家』というコンセプトの家を見たが、その家と対極になると思う。そういう家もアリだろうけど自分にはちょっと息が詰まる。私の描くファミリーは血縁などに関係なく、気の合う者たちが集うビッグファミリーだ。
そこには中東のハーフの男の子を連れた母子が来るだろう、地球を旅する放浪娘の仮家になるだろう、初老になっても車を飛ばしているデザイナーもギャラリーの帰りに立ち寄るかもしれない、隣県で陶芸をやる相方の親友も家族で訪ねて来るだろう、訪れる人のいない時には、2人静かにお互いの部屋で好きなことに没頭したり、人に留守番を頼み2人で旅に出るだろう…そんな図が自然にピクチャできるのだ。
そうだ。これは、ずっと私の理想と憧れだった88歳の女性、俊子さんの「海の家」かもしれない。
私は昔から「家」にいるのが好きで、独り遊びをしているのが好きだった。10年後、この家を棲家にして、わがままに幸せに自分遊びをしながら、一人でも誰かを幸せにできたらいいと思う。そんな未来に向うために、今しなければならないことも明確になってくる。
コンパスは向けられたのだから、後は、そこに向って「今」を生き、前に進むだけ。
そう思うと、なんだか、とても楽になった。