水曜日という時間

今年のお盆は13日から実家に帰り、15日の最後の日には相方もやって来て一晩泊まり、翌日二人で帰宅したのだが、その時、チョンボをしてしまった。
忘れ物をしたのだ。それもあろうことか私の仕事道具PCと資料が入ったかばん。
大荷物だったのと、車が2台だったこともあってお互いが持って帰っているだろうと思い込んでしまっていたので自宅に帰ってからやっと気づいたという始末(泣)。PCなら、他にもあるから翌日でもいいが、なんせ資料が入ったカバンがある。その日の間に書かなければならない原稿があったので、どうしても取りに帰らなければならなかった。しかたなくそのままUターン。
なんで、こんな大事なものを見事に忘れるのかなあ? 何だか無理やり帰らされているみたいだ。
こうゆうアクシデント(?)があると、私はすぐに意味を考えてしまう。何かがあるのではないか?何かのメッセージではないか?…と。
戻ってみてそれがわかった。
帰るとき、少し弱って見えた母に後ろ髪を引かれたのだが、戻ってみると、暑さのためか疲れのためか母が尚いっそう弱っていた。やっと立ってはいるものの足元もフラフラ…本人は大丈夫、と言い張るが、目も落ち込みかなりキツそうだ。先日のニュースでは老夫婦が二人、熱中症で死んだとか。とにかくこの暑さだ。強引に休ませた。
その母の姿を見て相方と決めたのが、週1回水曜日の定期的里帰り。
母の退院後ずっと一緒に暮らしてめんどうを見ていた兄が突然、東京に帰ってから、私に引き継ぎ実家に帰ってはいたのだが、私はずっと兄に腹を立てていた。介護に飽きて逃げたのだ、身勝手過ぎると、どこかで兄を非難していた。だけど、それは自分も同じではないかと、気づいた。
両親の「私たちはそれなりにやっているし、大丈夫だから、そっちを優先して帰れるときに帰ってくれればいい」という言葉に甘えていた。私の都合でアトランダムに週に1だったり、2週間に1度だったり、気づけば月に2度くらいだったりした。
だけど、「帰れるときに帰る」は、ただの客の訪問と同じだ。何一つアテにならない。もう、うちの両親はそんな状況じゃないのだと、今回、忘れ物を取りに戻って痛感した。それで覚悟を決めた。週1回無理やりでも水曜日には何を置いてもこの日を優先しよう、と。
「あんたたちが何と言っても帰るから!」
両親にきっぱりそう告げると、「あんたがそう言ってくれるなら…」と了解してくれた。
で、今日の水曜日。朝、家の雑事や仕事の処理などをして帰り、母の病院、父の銀行、買い物などに連れて行く。今まで二人は気を張っていたのか、「毎週楽しみが増えたねー」「これでいろんな用事をアテにできるなー」と、ことの他、喜んでくれている。
もっと、早くこうやって覚悟を決めればよかったのだ。こんなときのためのフリーランスだもの。私の中でまだ、両親の老いを直視できず逃げていた自分がいたのかもしれない。
若い子や年老いた者を他人事と思うなかれ。
いつか来た道、いずれ行く道
と、言うように、やがて私も誰でも年を取るのだ。一度弱ってしまえば坂を転がり落ちるかのようだ。いつも自分の前に立ちはだかったいた親が、今は私の手を必要としてるのが痛いほどわかる。感謝したいのは、間に合ってよかったということだ。生きているうちに両親と向き合えることができて、私は幸せだと思う。
父をリハビリの水泳に連れて行き、母の洋服の買い物に付き合った。心なしか二人とも元気に見えた。私も何だか気持ちが落ち着いている。
いつまで、この「水曜日」が続くかわからない。だけど2度と来ない、貴重な「水曜日」だ。
この与えられた時間が続く限り、精一杯楽しみたいと思う。