すきまの表現

昨日、現代美術をやっている友人Sのアート展の報告会があった。
報告会と言っても堅苦しいものではなく、彼女のプロジェクトの始まりから終わりまでの様子をスライドで見ながら報告を聞き、合間に質疑応答を含めたものを挟み、最後にはみんなで鍋をつついて雑談をするという、ざっくばらんなものだった。
仕事と雑事に追われていた私としては、こんなぽっかりと空いた時間に、どこか非日常的な世界に触れてみたくてフラリと参加したのだが、思いの他楽しかった。
アート展というか、そのイベントは山口県宇部市で行われていた。舞台はもうすぐ撤去されるという昔ながらの、商店街だ。
スライドの中の世界は、時が昭和の半ばで止まっていた。その空き店舗の一角を借りて、そこを拠点にし、まだ残っている商店街の店に商品と共に作品を並べていた。
古い時計屋のショーウィンドーには黄金の木の葉を詰め込み、雑貨屋には手作りのTシャツを並べ、靴屋にはワークショップの参加者が作った独創的な手作り靴を展示。
空き店舗のほの暗い1室からは、音の出ない古いラジオを設置。そこからは、彼女が商店街の人と話している様子がボイスレコーダーからノイズと一緒に流れている。
もうすぐ終わろうとしている商店街の昔ながらの風景に、異質な作品が不思議に同化していた。
私は昨日見た、中国の映画、映画館の閉館の最後の日を館内だけで描いた「楽日」のシーンの続きを見ているような気分だった。
現代美術というと、う〜ん、と首をかしげるようなものは多々ある。理解できようができまいが、それはどうでもいい。好きに感じ取ってくれればと、いう投げかけが彼女や他の作家たちのほとんどのスタンスだろう。
そこで感じたことや、揺さぶられるもの、或いは感じなかったことでもいい。見るものに、なんらかのかたちで伝われば、それさえ含めて彼らの作品になるのではないかと思う。
今回の彼女の作品は、商店街を知り、そこに住む人々とコミュニケーションを取っていくことから作品作りは始まっていたと思う。商店街で起こるざまざまなアクシデントや、人々の警戒心、不信感、そしてやがては親近感になったという変化も含めながら、作品は次第に作られていく。
ハッキリとこうだ、と理解しやすいもの、手に取りやすいもの、見えやすいもの、その狭間の見えにくいすきまに、現代美術というアートは生きている。
それは、作家だけでなく、そこに触れた人々にも、日頃、焦点を当てない感情や心のすきまに入って行く。
見たくないもの、触れたくないもの、考えたくないもの、そして、消えゆくもの。
それが実は、生きていく上でどれだけ大切なものかを、彼女のスライド報告は改めて、感じさせてくれた。