若き建築家のこと

まだ、メールがここまで普及していたなかった頃、私はある男の子と約1年間‘文通’をしていた。
男の子はM君と言い、当時京都大学を目指して京都の予備校に通っていた。
彼の家とは家族ぐるみの付き合いで、その母とも、姉とも友人でしょっちゅう家に遊びに行ってたのだが、いつの間にかそこの家の男の子(当時、高校生)が一番の友達になった。今どきの高校生にしては妙に純粋で、もの静かで内省的で、賢そうな男の子だった。闊達でおしゃべりな姉とは違い、人なつっこい方でもないのに、今考えても何がきっかけだったのかわからないが、映画が好きで村上春樹が好きで、共通の言葉を持っていたのを互いに感じていたと思う。
文通は取りとめのないことを書き綴っていた。今日の出来事、読んだ本、見た映画、感じたこと…など、時にはお互いに交換小説を書いたりして(未完に終わったが…)、彼が見事に京都大学に合格するまで続いた。
そのM君は建築家を目指していた。好きな建築家は、ポルトガルの建築家、「アルヴァロ・シザ」。彼の作品を訪ねて、スペイン、ポルトガルまで一人で旅に出ていた。
京都大学に入ってからもちょくちょく℡やメールなどをしていたが、互いに多忙になったこともあって次第に疎遠になっていった。
彼との関係の旬は過ぎたと感じた。
必要な時期に必要な人と出会い、関係を満つにすることがあるが、その旬が過ぎれば、また、それぞれが必要な人と出会っていく。
あの頃、手書きで便箋に綴り、封筒を選び、切手を貼って投函し、郵便ポストを覗くのを楽しみにしていた、あんないい時間を、私の引き出しにしまえることで十分だと思った。
その後、彼はイギリスの大学に渡り、そこを卒業したら次はオランダに渡ってずっと学んでいた。近くに彼の母親がいたので消息や連絡先を尋ねればわからないこともなかったけど、あえて知ろうとも思わなかったし、向こうも連絡をしてくることはなかった。
そんなとき、彼の姉が東京でサロンを開いた。エネルギッシュな彼女もまた、国際的で、メキシコに住みそこでネイティブアメリカンからストーンセラピーを学び、次はイタリアに渡り、フェイシャルリクソロジーの第一人者に師事して、お墨付きをもらったというツワモノ。
若くして、東京の一等地にサロンを構えて今や口コミで評判は上々らしい。その彼女のHPをM君が作成したという。
開いてみると彼の人柄が全面に出たような、なんとも温かく、かわいく、また、スタイリッシュなデザインだった。そこから、彼のサイトにリンクした。
英語と日本語の両方で書かれているブログを読んで、彼が長い勉学を終えていよいよ就職活動に入ることを知った。
オランダから中国、ドイツなどを旅して、あらゆることを吸収し、体感している彼のイキイキとした世界が美しい写真と共に綴られていたが、その文章は、あの文通していた頃とまったく変わらない、素直な、ゆったりとしたM君の文章だった。
そのブログの中でこんな文章を見つけた。
「僕の造りたいものは、音楽のように振動を通して気持ちを伝え響き合わせていくような、あるいはその場所の周波数にあったような空間を作るとか、そういうイメージなのです。今後もこういうコンセプトは自分の中にずっとあるだろうと信じています」
これを読んで思わず笑ってしまった。当時、M君がまったく同じことを(あの時も音楽のように、と表現していた)手紙に書いてきていたのを思い出したからだ。その頃から目指しているものが見事に変わらずにあるのを知って、なんだか嬉しかった。
このブログを見れば、世界のどこにいても、彼の今が見える。
いつか、彼が作るものに出会える日がやって来るのだろうと思うと、オバさんは本当にわくわくしてくるよ。
クリスマスには久々に長いメールを送ろうかと思っている。
それにしても、こうやって、人と人を再開させ、新たに出会わせてくれるインターネットは今さらながら、すごいなと思う。発明者(ダレ?)には感謝だな〜。