赦しについて

先週の日曜日、相方の古い友人で、私が取材したアメリカ人女性宣教師Cさんの送別会に呼ばれた。
10年近く住んでいた教会を離れ、次は横浜に転勤するのだという。
「大好きなこの街を離れたくないけど、これも神様がお決めになったことだから従おうと思いました…」
と、Cさんは挨拶のときに涙ながらにそう言った。
Cさんは取材でお世話になったというだけでなく、その底抜けに明るい人柄にとても好感がもてて、すぐに大好きになったので、これはどうしても行かなくてはとかけつけたのだが、ひとつ誤算があった。
お別れパーティーの前に1時間ほどミサがあることを忘れていたのだ。
ミサはもちろん賛美歌を歌い、聖書を読み、また、賛美歌を歌う。信者代表の女性が壇上で、聖書の一節をなんたらかんたらと解説する頃になると、どうも居心地が悪くなる。ついでに、まぶたも重くなる。相方をふと覗くと、さすが、私の相方だけある。
堂々の爆睡状態だ(コイツにだけはかなわねぇ〜)
最後に宣教師のCさんがメッセージを伝える。彼女が最後に選んだテーマは「赦し」についてである。
彼女は赦しというのがとても難しい性格なんだという。どうしたら、私を傷つけた人を赦すことができるのだろうかと知人に相談したところ、昔、傷つけた人の名前を一人ひとり書き出して行きなさい。その人の顔を浮かべながら、赦しますと祈るのです、と云われたと。
Cさんは、昔、昔を思い浮かべがら書き出したところ、その数はなんと200人に上ったのだという。
これには大笑いしてしまった。こうゆうところが彼女人間らしいところだ。悩みながら、神に教えを請いながら、人の助けになりたいと望んでいる。教師である彼女もまた、人を教えながらこの先学ぶことがたくさんあるのだろう。
そんな話を聞いて、私自身考えた。昔、私を傷つけた人、赦せない人を書き出してみよう、と。
ところが、不思議なことに誰一人として浮かんで来ないのである。相方にそう話すと彼も、ぼくもそうだ、誰も浮かばないなあ〜と。
こう書くと私らはまるで善人か、デキた人のように見えるかもしれない。だけど、それは違う。
たとえ、過去にひどく傷つけられ、絶対に赦せね〜!と固く決心したとしても、コンジョーとエネルギーのないヘタレの私らは、二晩も寝たら忘れてしまうのである。怒りを持続できないので、ケンカもへたくそだ。怨みだけではない。感謝すら3日持たないんじゃないだろうか(相方は3時間持たないと言い切った)。
旅先でとてもお世話になった方に、ありがとございます、このご恩は一生忘れません!と心から言っても、飛行機に乗って降りた頃は忘れてしまっている。
隣人にその話をしたら「そのとおりよ!それがキミたちの徳なところなのよ」と即答されてしまった。
徳かあ??いいのか、これで…?
いいわけがない。
だからせめて、私が生きていられるのは周りの皆さんのおかげ、天のおかげです。と、毎日ことあるごとに、感謝、感謝と、海馬に刻みつけているのだから。