責めること 許すこと

昨夜、若い友人から長い℡がかかった。
彼女は自分を愛することがどうしてもできないのだという。
自分と人との間にトラブルが起こると、すべて、自分のせいのような気分になるのだという。彼女の中でついつい自分を責めるクセがついているらしい。
彼女を子どもの頃からよく知る私が察するに、これは子どもの頃からのトラウマが要因だと思う。
彼女の母親は何をするにもルールを強いていた。夕飯は6時まで済ますこと、待ち合わせは早めに行くこと、部屋は常にかたづけておくこと、服は1回着たら洗うこと…などなど、日常のささいなことから、考え方、生き方のことまで、あらゆることに決め事が多かった。そのルールをはずすと、母親はパニックとヒステリーを起こしていた。当然、子どもにもそのルールを強いる。強い子なら、「私には私の生き方」があるとそれを貫き通すだろう。
だが、私の友人は母親に気に入られたかった。怒られると自分が否定されたように感じてしまう。
完全主義の母親に追いつきたい、気にいられたいと思うがために、そうできない自分を責めてしまう。
私もまったく同じトラウマを持っていた。
ただし、私は母親をはねつけ、嫌うことで、自分を立てなおし、書くことを支えにしてやっと自分を取り戻した頃、母を許し、愛し始められた。
だけど重要なのは、そのトラウマではない。誰でも子どもの頃、何かしらのトラウマは受けているものだから。大切なのは、それをどれだけバネにできるかということだ。
彼女は、その強さを持たずに育ち、今だに母親の顔色を見ながら仲良く、ベッタリと過ごしている。
そんな彼女に私は言った。
「自分はカンペキなニンゲンじゃないんだよ。責めることより、許すことを覚えることだよ。自分はこんなもんでしかないんだからって、このくらいでいいんだ、くらいに思わなきゃ」
素直に話を聞く彼女の言葉は、
「そっか〜、そうだよね〜、なんか気が楽になったよ。私ガンバル!」
おいおい…がんばることじゃないだろ。これさえも私へのリップサービスじゃないのか…。
そんなことを心のどこかで思いつつ、その夜、仕事に向かった。
早く片付ければいいのに、またまた今までのクセで延ばし延ばしになり、深夜の仕事となった。
相方がやすんだ後、もくもくと作業を続けながら、自分の情けなさに気持ちが暗くなっていた。
そこで、ハタと私は自分の感情に気付いてしまった。
まったく、同じなのだ。
どうしても仕事に早めに向かえない自分に、私はいつもいつも自分を責めていた。そして結果、同じことを繰り返していたのだ。彼女に言った言葉は、自身への言葉だった。
それに気付くと、‘フっ’と気が抜けた。なんだ、自分にレッテルを貼って、決めつけていたのは私だったのか。
「それがアンタだよ。いつものことだよ、でも結果うまくいってるからイイじゃないか。最終的にはいつも結果オーライなんだから感謝すべきだし、あんたはツイてるよ。もういいかげんスロースターターの自分を認めなよ」
私は今の自分にそう言って許した。
いつか、ある人から言われた言葉を思い出す。
「あなたは子どもの頃からのトラウマを今だに持っているんです。今だに自分を認めていない。人をうらやんで、人の裏側を見て弱みを探すクセがある。そんなトラウマを払拭できない自分の中の負が、負を抱えている人たちを呼び寄せるんです。なぜ、もっとあなたの素晴らしさを認めないんですか。もっとプラスに光を当て、自分を高めることです」
その言葉を私は一旦は認め、次第に深く傷を受けたことを知り、次に否定し、そして、気付けば彼女の言葉の正しさを少しずつ少しずつ、知ることになる。
スローライターは、ありがたいことに今だにいろんな人たちに、いろんなことを気付かされ、成長している。
確かに私は恵まれ、ツイているんだな、と思う。ほんとうにほんとうに、感謝だ。