生活と仕事

昨夜、ドイツに行っている友人から電話があった。
彼女は退屈を嫌い、常に旅に出たがっていた。刺激を求めてドイツに行ったはずだった。
その彼女が電話の向こうでヒマで退屈だと言う。
しかも、私が今仕事で忙しいことや、週末にエルサルバドルのお客様が来るので何を作ろうかと思案していることや、今月は友人のグラフィックデザイナーのギャラリーオープンパーティに関わっていることなどを話すと、
「楽しそうだなあ、いいなあ」という。
おいおい…
楽しいのはそっちやろ、刺激のある日々を求めてドイツに行ったんじゃないのかい?
聞くと、実はそうでもないらしい。
学校に行ったら他にすることがない。なまじ英語がしゃべれるからドイツ人はみんな英語で話してくるからドイツ語をなかなか覚えない。前回の旅で知り合った友人に頼って行ったが、近づいてみれば意外と難しいし、趣味も合わない子だ気付いた。
旅と滞在は違うのだろう。
旅は移動だけど、生活は一見、停滞だ。いろんな面を見らざるを得ない。
実は、そういう経験は、私にもあった。
20歳の頃パラグアイに旅したとき、1ケ月の滞在の旅だったけど、みんなそこで生活し、生きている。その頃の私はプーだったので、いったいここで私は何をしているんだろう?と思ってしまった。何も持たない、何もしていない自分にひどく落ち込んだ。
もちろん、彼女は私とは違う。一時的に退屈な面もあるだろうが、生活の中に積極的に入り込み、そこでしかできないことを楽しみ、吸収しているようだ。後は、彼女が今後、その体験をどう生かすかだろう。
なら、私は過去の数々の旅体験から何を生かして来ただろう?
人との触れ合い?ちゃうなあ、そんなもんその場限りのがいっぱいやもん。
いちばんの収穫は、どうにでもなるんだという強さかもしれない。
言葉もわからない国に一人で旅したとき、不安と恐怖だったけど、結果、どうにかなった。それに独りのときの方が倍の力を発することも知った。
そして、何より「生きる面白さ」、つまり生活の楽しさだ。
どこの国に行っても、人は生きて生活している。それを観るのが好きだった。
特に、ラテンの国々のメルカドは生きるバイタリーと生活の臭いがぷんぷんして大好きだった。
そして、今、生活と仕事でマジ忙しい日々を送っている私は退屈やヒマ知らずだ。
今日、C.Vがやっと終わった。
最終校正のためデザイン事務所で最後の詰めをした。今回こそいろんな仕事やプライベートと重なって、もうダメかと思ったけど、なんとか乗り越えた。
その時、やりっぱなしの仕事ではないか?
もっと丁寧に仕事をすべきじゃないか?
と、かなり落ち込んだけど、そこを反省して校正段階でかなり頑張ったと思う。掲載者の人々にも誠実に向かった。原稿を見せ、話合い、最終的にみんなから喜びの声をもらい、今日最後に読み返してみれば、力を出し切ったいい文章に上がったと思う。
今回は、デザイナーもカメラマンも特に力を出していた。
だからこそ、最後まで私も力を抜けなかった。いい仕事ができたと思う。
この仕事の中で何回も何回も、プライベートの狭間で迷ったし悩んだ。相方にもかなり迷惑をかけたと思う。申し訳なかったけど、彼はとても応援してくれた。
自分のことは二の次でいいから、気追わずあなたらしくあればいいんだよ、と。
それもありがたかった。
ライターという仕事に出逢ったこと、生活を共にできること。
こんな充実した毎日を遅れることに本当にありがたいと思う。
生活と仕事にこそ、旅があるのかもしれない。