SYRIANA(シリアナ)を観て

シリアナ」を観た。

S・ソダーバーグがプロデュースしたこの映画は「トラフィック」の石油編だとも言える。
トラフィック」にはひどく感動して3回も観た。特に、デルトロが眺める野球場のラストシーンは何回観ても涙が出そうになる。

今回も、哀しみと絶望を抱えたCIAを演じたJ・クルーニーには心が動かされた。
湧き出る石油を巡る人の欲と権力の交差、翻弄される人々。政府から、CIA、アナリスト、弁護士、そして労働者たちまで、それぞれの立場から描き、最後は、石油を核にしてすべて繫がってくる。

いったい地球の資源は誰のものなのだろう?

改めてそんなことを感じずにはいられない。前回の「トラフィック」もそうだが、これが真実だとしたら(おそらくほぼ真実なのだろうけど)、アメリカは、もう戻れないところまで来ているのかもしれない。
ただ、救いがあるとしたら、こうゆう映画が生まれるのも、またアメリカだということだ。
まだ観ていないが、人と人の関わりを避ける現代社会を描いた、アカデミー賞受賞作品の「クラッシュ」もまたアメリカの映画だ。人や国の心の闇を描き、真実を追究し、普通の人々の心に「他人ごと」ではないことを伝えるのが、映画の持つチカラだろう。こんなチカラある映画をまだ、アメリカは作れるのだ。

だけど昨夜、シネコンにかかった「SYRIANA」の観客はほんの数人だった。
なぜなんだろう?

国同士で、人同士であまりにも悲惨で絶望的な事件が湧き上がるごとに、人は目を背け、その事件から遠ざかろうとする。現実がこんなにひどいのだから、映画まで痛い思いをして見たくないと、笑って考えなくてもすむ娯楽映画や、穢れのない美しい純愛映画や、リアリティーのないSFやアニメ映画に流れる。もちろん、それも悪くはない。疲れた日常には、たまに食べたくなるファースト・フードのように必要なときもあるからだ。
だけど、映画の本当の良さやチカラは、そんなものじゃない。
私にとっての映画は自分とは違う社会や世界、人生を観て、触れて、感じられることだ。
疲れて、辛いときほど、心に染みる、訴えかける映画を観たくなる。
私一人じゃないんだ。みんな、さまざまな状況の中でそれぞれの人生を生きているんだ、とふっと精神(こころ)が解放される。そう思うと、違うと思っていた世界がぐんと身近になり、いつの間にか自分とシンクロして他人事ではなくなってくる。

人がいる限り、物語は人の数ほどあり、映画は終わらないと思う。
終わってはならない、と思う。